おはようございます。
もち子とすし子です。
今日は
【愛してる、大好きを免罪符にしない】
について書いていこうと思います。
実は11月29日の記事を書いている時に
もち子とすし子で意見のぶつかりがありました。
一昨日の記事はコチラ👇
こちらを読んでもらえると嬉しいです🙇♀️
ざっとまとめると、
『自分を苦しめている悩みは自分自身で作り上げている』
という内容です。
すし子のその時の考えは、
子育てにの悩みは尽きない。
悩まないなんて無理だ。
だけど、悩んでいると言うことは
自分の大切な子供たちだから悩みになるんじゃないか?
よその子の事を悩んだりしないし、
自分の子供が大好きで愛しているからこそ
悩み、もがき、正解のない子育てに向き合っているんだ。
悩みの原点は
「愛する我が子を思う気持ち」から
生まれているんじゃないのか?
だから悩むことは悪いことじゃない。
だって愛しい我が子の事を思っているんだもん。必死になるよ!
でも苦しくなるほど悩む必要はないよね。
と言う、意見でした。
一方で、もち子の意見は
なぜ、子供の事で悩むのか?
それは
子供=親となって
子供自体が親の評価になってないか?
いかにも子供のためを思っていっているように聞こえるけど、子供の『〇〇ができない』を親のせいにされたくないからじゃないのか?
あと、
うちの子は〇〇だから
という決めつけが自分にも子供にも刷り込まれていて、
すし子と長男の話でいうと、
「長男は宿題が嫌い。」
「長男の宿題を見ていると、必ず言い合いになる。」
と、すし子は思い込んでる。
もち子は長男が宿題を嫌ってるなんて思ってない。逆に長男は楽しく宿題をやるって思ってるよ。
すし子自身が長男を宿題嫌いで発狂しちゃうって決めつけてるだけ。
悩みを悩みとして作り出してるだけだよ。
と言う意見でした。
もち子の意見を聞いている時、
最初は全然納得いかなかった。
私はなんとか長男をストレスなく勉強に向かえるように考えているだけなのに、
悩みの根本が『自分にある』ということを認めたくなかった。
私が原因だと突きつけられているようで
胸が締め付けられる思いだった。
この後、お互いの意見が混じり合うことはなかった。
すし子はもち子の家を後にして、長女の幼稚園のお迎えに行った。
そして今日の話し合ったことを整理してみた。
長男のためを思って悩んでいたことは
私が作り出した『悩み』でしかないのか?
大好きな息子のことを思って
どうしたらいいのか考えていることは
私が1人で勝手に深く悩みすぎているだけ??
こんなにも想っているのに・・・
こんなにも大好きな息子のことなのに・・・
んん???
大好きだから悩むのか??
大好きとか想ってるとかは
ストレスなく勉強できることになるのか?
それとこれは関係ないんじゃないか?
そもそも、長男自身は宿題や勉強は自分でやらなきゃいけないことを分かってる。
ただ、やらなきゃいけないと分かっていても、やりたくないなーって思っている。
私にあーだこーだと文句を言うけど、
学校や家以外のところで発狂したり爆発したりしてないじゃん・・・。
長男は母親であるすし子に甘えてくれているんだ。
何を言っても嫌われたり、居場所が無くなったりしないから
他の誰でもない私に甘えているだけなんじゃん!!
私がどうにかしてあげなきゃ!
が、どんどん拗れていって
悩みがどんどん膨れ上がっていってただけだったことに、
やっと気づくことができた。
そのことに気がつけたら、
大好きな子供のことなんだから必死に悩むに決まってるじゃん!
と思っていた自分に違和感を感じた。
大好き・愛していると言う想いの使い方を間違えると
とんでもない刃になってしまうんじゃないのか・・・?!
想いすぎるがあまり悩みを拗らせて深みにはまっているだけなのに、
『相手を想っているからこそ、こんなに悩むんだ。』
と、自分の思いを必死に肯定したくて仕方がなかったんだ。
大好きだから悩むんじゃなくて
悩んでる自分をなんとか肯定したいから
大好きと言う想いを引っ張り出してきているだけなんだ。
大好きな気持ちを否定している訳ではない。
ただ、自分の言動や思いに『大好き』を引っ付けて
相手にぶつけてしまっていないか?
大好き・愛してるを免罪符にしていないか?
もう一度自分を振り返るきっかけになりました。